【短編小説】静寂の家
借金とギャンブル。その二つの言葉が、俺の人生を狂わせた。
パチンコ店の明滅する光の中で、俺は今日も給料を溶かしていた。勝てば全てが解決する。そう信じていた。でも現実は違った。消費者金融からの借金は雪だるま式に膨らみ、給料日の半分以上が返済に消えていく。残りは、また新たな「一発逆転」の種銭として消えていった。
そんなある日、パチンコ店の休憩所で、見知らぬ男から声をかけられた。
「困ってそうだね」
スーツ姿の男は、やけに柔らかな物腰だった。優しく微笑みながら、一枚の名刺を差し出す。
「良かったら、うちで働かないか?」
その時は断った。でも、その名刺は捨てなかった。
それから一週間後。
携帯が鳴り止まない。取り立ての電話だ。家賃も二ヶ月滞納。
このままじゃ、家を追い出される。
震える手で、あの名刺の番号を押した。
「あぁ、覚えてるよ。今夜、会おう」
待ち合わせ場所は、繁華街から少し外れた漫画喫茶。個室で、「先輩」と呼ばれる男と対面した。
「簡単な仕事だ。見張り役でいい。日給3万。即金で払う」
その時、もう俺に選択肢はなかった。
最初の「仕事」は、予想以上に簡単だった。夜の住宅街で見張りをするだけ。いつもの時間に寝静まった家。先輩は手慣れた様子で、二階の窓から忍び込んだ。ただ金目の物を物色し、抜き取る。それだけ。積雪のつもる森の中の様に、家屋は静けさを保っていた。
二回目も同じ。三回目も。
給料は確かに良かった。借金の返済も少しずつ進んだ。このままいけば、あと半年もすれば…。
そう思っていた矢先、先輩が新しい「話」を持ちかけてきた。
「今度は大物だ。思い切り稼げるぞ」
高級住宅街の一軒家。海外出張中の旦那の留守を狙う。家族は奥さんと子供二人。金庫には現金と貴金属。下見も済んでいた。
「簡単な仕事だ。今までと同じ」
その言葉に、どこか違和感があった。でも、もう後には引けなかった。
深夜2時。車を路地に止める。街灯が、異様に明るく感じた。
「表通りは別の奴に見張らせてある。家の前は任せた」
先輩が黒い影のように庭に消えていく。無線を握る手が汗ばむ。静寂が耳鳴りのように響く。
5分。10分。
時計の針が、やけに遅く感じた。
そして——
「ママ…?」
小さな声が夜を切り裂いた。
血の気が引く。
無線が唐突に震える。
「くそ!起きやがった!」
咄嗟に車を降りる。このまま声が響けば、近所に気付かれる。
でも、どうすれば…
無線が再び鳴る。
「二階だ!早く来い!手伝え!」
体が動かない。
足が震える。
吐き気が込み上げる。
「あなた…誰…?」
「動くな!」
「子供たちだけは…お願い…」
悲鳴が聞こえかける。
何かが倒れる音。
子供の泣き声。
「金庫の暗証番号を言え!」
「お願い…」
「言わないと、この子を…」
胃液が込み上げる。
これは違う。
こんなはずじゃ…
その時、無線が鳴った。
「おい、通行人がそっちに行くぞ。なにかあったのか?」
「先に降りてろ」
先輩の言葉を聞き終えるでもなく、無我夢中で車に向かった。
後ろを振り返ることなく、前だけを見て。
心臓の音で、何も聞こえなかった。何も聞こえなかった。
すぐに、先輩が走り出てきた。
手には鞄。
服は、何故か黒く滲んでいるようだった。
「行けよ!」
アクセルを踏む。
ハンドルが震える。
バックミラーには、静寂に包まれた家が小さくなっていく。
その夜から、悪夢が始まった。
眠れない。
食べられない。
テレビも新聞も見られない。
子供の泣き声が、耳から離れない。
母親の悲鳴が、夢に出てくる。
一週間後、先輩から電話が来た。
「次の仕事だ」
「もう…できません」
声が震えていた。
「は?お前、あの家のこと警察に話すつもりか?」
「違います…ただ…」
「黙ってろ。お前の家族の住所、知ってるからな」
「…」
「明日の夜だ。電話する」
受話器の向こうで、乾いた笑い声が響いた。
その夜。 雨の中、俺は歩いていた。
考えれば考えるほど、吐き気が込み上げる。 でも、もう決めていた。
警察署まで、あと三つ角を曲がれば着く。 街灯が途切れる場所。 人通りもない。
足音が水たまりを踏む音だけが、 闇の中に響いていた。
あの家族達はどうしているだろうか。
母親は、まだ怯えているだろうか。
・・・子供たちは眠ってしまったのだろうか。
その時だった。
「おい」
低い声が、路地の影から聞こえた。
振り向く間もなく、鈍い衝撃が後頭部を襲う。
意識が遠のく中、 最後に聞こえたのは先輩の声。
―――雨は、その後も静かに降り続けていた。
誰に気付かれることもなく。