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【短編小説】バイラルグラフィティ

古びた街の掲示板
blackbox

「ねぇ見て、また増えてる」

結衣が差し出したスマホには、暗がりで撮影された蛍光色の文字が写っていた。駅裏の築古びた雑居ビルの外壁に設置された広告板。そこに書かれた文字は、ぼんやりと不気味な光を放っている。

「これで何人目?ついこの間からだよね」

「うん。最近急に広がってるの。しかも、投稿した人みんな願い事が叶ってるって」

十月初旬の昼休み、いつもの教室の窓際。結衣は熱心にスクロールを続けながら、投稿を次々と見せてくれる。ハッシュタグ「#真夜中の願い事」の投稿は、あっという間に拡散されていた。

「これ、すごくない?『バイト先の契約延長をお願いします』って書いた子、三日後に文字が消えて、その日にマネージャーから契約継続の話があったって」

「ただの偶然じゃない?」

「じゃあ、これは?『文化祭で一緒に演技したい』って書いた子も。文字が消えた日の午後に、演目決めで憧れの先輩と一緒の配役になれたんだって。しかも抽選だったのに」

私は溜め息をつく。「結衣、あなたまさか…」

「うん、行ってみようと思ってる」結衣の表情が一瞬だけ強ばる。「咲希も一緒に来てくれない?」

「だって、ただの迷信でしょう?それに夜中の駅裏なんて危ないよ。あの広告板のある場所って、防犯カメラも届かないし」

「深夜二時がポイントなんだって。終電も終わって、始発までの誰もいない時間じゃないとダメなんだって」結衣は画面を指差す。「近くに、三時過ぎまで営業してるネットカフェがあるから、最悪そこまでダッシュすれば大丈夫」

私は首を振った。「それでも…」

結衣は突然、声をひそめた。「実は、お母さんのことで…」
私が聞き返そうとすると、結衣は慌てたように明るい声を作る。
「ほら、もうすぐ文化祭の準備始まるじゃん。その前に、お願いしたいことがあって…」

その様子があまりにも不自然で、私の胸に嫌な予感が広がった。結衣のスマホには、タイムラインが表示されたままだ。新しい投稿から古い投稿へと、願い事とその成就の報告が並んでいる。どの投稿も、文字が消えた日に願いが叶っている。

「考えとく」

そう答えると、結衣は無理に明るく笑った。けれど今度は、その笑顔に隠された何かを、確かに感じ取ることができた。


「考えとくって言ったけどさ…。」

暗闇の中、私のスマホの画面が青白く光る。深夜2時18分。予想以上に寒い十月の夜気に、思わず身震いした。

「付き合ってくれてありがと」

「私、明日補修なんだけど。絶対起こしてよ」
まさか、その日に駆り出されることになるとは思わなかった。

言い訳を考えるのに苦労した。体育祭の準備があると何とかごまかそうとしたが、母さんの小言は止む気配がない。結衣の家だと説明しても状況は変わらなかったが、最後には渋々ながらも了承してくれた。

実際に駅裏に立つと、背筋が凍るような恐怖を感じる。雑居ビルの裏手、街灯一つない場所に、例の広告板が浮かび上がっていた。

「大丈夫、誰もいないよ」
結衣が蛍光ペンを取り出す。少し手が震えているように見えた。

「私が先に書くね」

結衣は広告板に近づき、おそるおそる文字を書き始めた。結衣が自分のスマホのライトで広告板を照らす。私は後ろから、その様子を動画で撮影する。投稿のルールの一つだ。

結衣が一歩下がった瞬間、私の目が文字を追う。

『どうか、お母さんの─』

「咲希の番だよ」

結衣が急いで私の前に立ち、視界を遮った。まるで、文章の続きを読まれたくないみたいに。

「あ、うん…」

私は結衣と場所を交代し、蛍光ペンを受け取る。手が震える。今までネットでしか見たことがない、あの広告板に実際に触れると、妙な感覚が全身を包んだ。ペンを近づけた瞬間、冷たい風が吹き抜ける。

私は深く息を吸い、書き始めた。

『来週の体育祭、活躍できますように』

実は他の願い事も考えていた。でも結衣の様子が気になって、とりあえず自分のことにした。大きな競技の最中に怪我でもしたら、と不安だったのは確かだけど。

「よし、投稿しよう」

結衣がスマホのライトで広告板を照らし、私がゆっくりと撮影する。その時、広告板の隅に、薄れかけた蛍光色の跡が目に入った。消えかかっているその文字は、まるで警告のように見えた。

「あれ…?」

結衣が私の声に気づき、慌てて腕を引っ張る。
「帰ろ、咲希」
まるで、何かを見られたくなかったみたいに。

翌朝。水曜日。

補習が終わり、来週の体育祭に向けた練習が始まった。
クラス対抗リレーの練習で、いつも足をつりそうになる急カーブも、すんなり通過できた。願いは叶うのかもしれない。

でも、気になることがあった。結衣が突然、体調不良で早退してしまったのだ。体育祭の準備も、突然休むと連絡があったという。

保健室に寄ったとき、養護の先生は「熱があったから」と言っていた。でも、朝までは元気だった結衣が、急に具合を悪くするなんて。

LINEの返信も途絶えたままで、既読すらつかない。

私は彼女の様子が気がかりで、タイムラインを遡っていた。ハッシュタグ「#真夜中の願い事」で検索をかける。

タイムラインには、不安げな投稿が増えていた。「何か悪いことが起きる」「もしかして代償が必要なんじゃないか」。
噂は噂を呼び、願いを書く人たちの言葉が少しずつ歪んでいく。投稿者たちの不安が、画面越しに伝わってくる。

それはまるで、願いを叶えた人々が何か得体の知れない影に怯えているようだった。


翌朝。木曜日。

放課後の教室に夕暮れの光が差し込むことはなく、廊下に響く雨音が不安を増幅させる。
結衣が連絡をくれなくなって、もう丸1日が経った。

私は放課後の教室に一人、画面を下にスクロールする。結衣の投稿を探さなければ。
だが、一昨日の投稿のはずなのに、どこにも見当たらない。

窓の外では雨足が強くなり、窓ガラスを叩く音が焦りを煽る。

「結衣…」

ふと、あの日の彼女の表情が脳裏に浮かぶ。スマホを握りしめ、震えていた彼女の手。あの時、本当はどんな思いで文字を書き連ねたのだろうか。
私はため息をつきながら、タイムラインをさらに遡る。どこかに、手がかりがあるはずだ。

外では雨が降り始めていた。強まる雨音が窓ガラスを叩き、私の焦る心をさらにかき乱していく。

「佐藤さん」

突然の声に飛び上がる。振り向くと、担任の藤村先生が立っていた。普段の穏やかな表情とは違い、どこか緊張した面持ちだ。

「山本さんのお母さんの件だけど…」藤村先生は言葉を選ぶように言葉を紡ぎ、そして間を置いた。「今は保健室で休んでるから、様子を見てきてあげて」

小声で礼を言って保健室へ向かった。廊下は薄暗く、足音が妙に響く。雨の音だけが、私の不安な足取りに寄り添っていた。

ガラッと扉を開ける。結衣がベッドに座っていた。白いカーテンに囲まれた薄暗い空間で、彼女の姿が妙に小さく見える。

「咲希…」

今まで見たことがないような、疲れ切った表情。目の下にくっきりとした隈が浮かんでいる。

「お母さんが入院したんでしょう?あの願い事と関係あるの?」

結衣はしばらく黙っていたが、やがてポツリと話し始めた。か細い声が、保健室の静寂を切り裂く。

「母さん、病気だったの。でも、私言えなくて…」

結衣の声が震える。

「昨日、急に容態が変わって、連絡があったの。今日は大丈夫だから学校に行きなさいって…」

スマホの画面を見つめる結衣の手が震えている。青白い光が彼女の蒼白な顔を照らす。

「私、みんなが言ってた通りのことを…」

私は結衣のスマホを覗き込む。画面には書き込んだ時の写真が表示されていた。暗い広告板に浮かぶ蛍光色の文字が、くっきりと残っている。

『お母さんの病気が治りますように。だから、代わりに私の命を』

私は息を呑む。窓の外で雷が光り、一瞬、保健室が青白く照らされた。

結衣の涙が、スマホの画面に落ちる。ぽつり、ぽつりと。

「他の人の投稿を見たの」

「文字が消えていくの、気づいてた?昨日の夜から、どんどん薄くなって…」

彼女の声には、もう取り返しがつかないという諦めが混じっている。

でも、何かが違う。私の中で、小さな違和感が大きくなっていく。

私は立ち上がった。雨は相変わらず強く降っている。
時計を見る。今なら、まだ間に合うはずだ。


時計の針は深夜2時を指している。あと数時間で、願いを書いてから丸三日が経過する。

駅裏の広告板の前で、私と結衣は立ち尽くしていた。雨は上がったものの、夜は冷たく、街灯の光が届かない。水たまりに映る月明かりが、かすかに足元を照らしている。

「見えない…」

結衣が呟く。
確かに、一昨日に書いた文字は完全潰れ、蛍光塗料が辛うじてわかる程度だった。

新しい方の願い事もまた、蛍光色が薄れていく一方だ。暗がりの中で、かろうじてその輪郭が見えるだけ。

結衣は疲れ切った様子で壁に寄りかかる。顔色が悪い。母親の容態を案じる気持ちと、自分の書いた言葉への後悔が、彼女を追い詰めていた。暗闇の中でも、震える肩が見える。

私はふと、あの日のことを思い出していた。体育祭のための願い事。

『来週の体育祭、活躍できますように』

私の願いは、おそらく叶うだろう。

それなりに準備もしてきたし、この間の練習も悪くなかった。
それに例え着順が悪くとも、自分が満足できれば活躍したと言えるからだ。
誰かの犠牲など望んではいない、純粋な願いだけが込められていた。

それでは結衣は─。

そう、あの時の結衣もそうだった。「どうか、お母さんの─」。その言葉には、ただ純粋な願いだけが込められていた。

私は黙ったまま、ポケットから蛍光ペンを取り出した。
もう読まれることはない文字の上で、ペンの先端が微かに光っているように見えた。

夜風が吹き抜ける。深い息を吸い込んで、私はゆっくりと、一文字ずつ。

『結衣とお母さんが生きていられますように』

結衣が息を呑む。蛍光色の文字が、まるで溶け合うように光を放った。月明かりに反射して、幻想的な光の帯のように見える。

結衣は歩み寄り、自分が書いた文字の下に、震える手でペンを走らせる。

『お母さん、まだ一緒にいたい』

広告板の文字たちが、淡く明るく光り始める。まるで月光に応えるように。
代償の言葉は跡形もなく消えたかのように、蛍光塗料の跡はまるで浄化されるように消えていった。

帰り道、雲間から月が顔を覗かせた。水たまりに映る月明かりが、私たちの足元を照らす。

次の日の朝、結衣から連絡が来た。
『母さんの検査結果が変わったの。まだ治療できる可能性があるって』

窓から差し込む朝日が、教室を優しく照らしていた。再会した結衣は、久しぶりに本当の笑顔を見せた。
ただ、広告板の前を通るたびに、私たちは立ち止まる。そこには今も、誰かの願いが書かれ続けている。

でも、私たちはもう知っている。
本当の願いは、代償なんて必要としないということを。
そして時に、インターネットの噂は、私たちの願いさえも歪めてしまうということを。

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かぼちゃのランタンです。

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