【短編小説】真夜中のカーナビ
家に着くまで、あと一時間ほどだろうか。
停止した車内で疲れ目を瞬きながら、倉持美咲は往復するワイパーをぼんやり見つめた。取引先との商談が長引いたせいで、いつもより随分と遅い帰路になってしまった。ダッシュボードの時計に視線を移すと、ちょうど0時になった所だった。雨垂れにぼやけたフロントガラスの向こう側で、信号が青に変わったのを見て、美咲はのろのろとアクセルを踏む。
残業後の疲労のせいだけではない憂鬱感か、美咲の気持ちを重くした。雨の夜の運転だけは、あの日以来どうしても苦手だ。
『この先、渋滞情報があります。迂回ルートをご案内します』
機械的な女性の声が静かな車内に響いた。カーナビは今まで通ったことのない道を示していた。いつもの通勤ルートからは外れるが、この雨の中渋滞に巻き込まれたくはない。美咲はカーナビの指示に従って、迷わずハンドルを切った。
『この先、左方向です』
『200m先、右折してください』
見慣れない道を進んでいくうちに、街灯の数が徐々に少なくなっていく。いつの間にか車の両側に広がっていた雑木林と、フロントガラスを叩く雨粒を見つめながら、美咲は無意識に速度を落とした。
昔ひどい事故を起こしてしまったのは、こんな雨の日の夜だった。叩きつけるように降りしきる雨粒はヘッドライトの明かりを鈍らせ、視界をぼやけさせた。今や押しも押されぬ営業部長だが、当時の美咲は入社したての新人営業アシスタントで、翌日には社長や重役たちの前で大事なプレゼンを控えていた。社内査定に響く重要な仕事だった。美咲はその夜、どうしても早く帰りたかった。
「おかしいな……」
美咲は眉をひそめた。確かにナビは自宅に向かう道を示していたが、周囲の風景に不吉な既視感を覚えた。
『次の交差点を右折してください』
カーナビの声が、一層冷たく感じ始めた。交差点に差し掛かると、信号機は深夜特有の点滅に切り替わっていた。十年前のあの日も、確かこんな信号だった。
右折すると、道はさらに細くなっていった。舗装はされているものの、両側の木々が覆いかぶさるように伸び、まるでトンネルのような不気味な空間を作り出していた。
「この道……違う、そんなはずない。そんなはずないわ……」
記憶が蘇る。あの夜も、工事の迂回路でこんな道に入った。そして……。
『このま ま……直進……です』
突然、カーナビの画面がちらついた。青白い光が明滅し、地図が歪んでは元に戻る。そして、これまでとは明らかに違う、低く歪んだ声が流れ出した。
『このまま直進です』
赤い傘。
不意にその記憶が脳裏をよぎった。雨の中で転がっていた赤い傘。事故の後、何度も悪夢に出てきた光景。
「ちょっと、やめてよ……」
Uターンしようと減速したその時、カーナビがまた大きな声で話しだした。
『このまま……直進です。この、まま、直進です……このまま直進です……この……まま……』
低く掠れた声だった。いつものカーナビの音声とは明らかに違う。それでもどこかで聴いたことのある声。
それがあの夜の被害者が発したうめき声だと気付いた時、心臓がばくんと大きく跳ねた。
「やだ、何……! 何なのよ……!」
美咲は半分パニックになりながら、左手で助手席の鞄の中を漁った。なんとかスマートフォンを引っ張り出す。しかし画面には「圏外」の文字。十年前と同じように、誰にも連絡が取れない状況。
咄嗟にブレーキを踏み締めた。けれど車は止まらない。まるで意志を持つかのようにその道をただ進み続ける。
フロントガラスを叩く雨は、次第に激しさを増していた。ワイパーをフル稼働させても、視界は悪化する一方だ。十年前と同じ、あの夜のような酷い雨。
『目的..….まで、あと……3キロメートル……』
カーナビの声が、さらに歪んでいく。まるで複数の声が重なり合っているような不気味な響き。その中に、若い女性の泣き声のようなものが混ざっているような気がした。
『.…..の先左方向です……こ……先左方向です……この…左…向です……』
執拗に左折を促すカーナビ。耳障りなノイズを発しながら画面が激しく明滅する。そして……画面の中に浮かび上がったルートを見て、美咲は絶句した。確かに家に向かっていた筈だった。家への帰路を示していた筈だった。なのに今ナビが示しているのは、かつて彼女が事故を起こした崖へと続く道筋だ。
バックミラーに目をやると、最も恐ろしい光景が広がっていた。後方の道には、赤い傘を持った人影が立っている。しかし、ブレーキランプの赤い光に照らされたその姿は、どこか歪で不自然だった。
「こ……こんなの、現実じゃない……現実じゃない……!」
必死に否定する美咲。
しかし、カーナビは彼女の動揺を嘲笑うかのように、新たな声を発した。
透き通るような、綺麗な声だった。
『覚えていますか? 十年前のこの場所で私を見捨てた時のこと』
その瞬間、ヘッドライトが照らし出したのは、道路脇に立つ案内標識。
【崖注意】
十年前、彼女がひき逃げ事故を起こした、まさにその場所を示していた。
『目的地まで、残り500メートルです』
カーナビの声が、今度は打って変わって底抜けに明るく車の中に響き渡った。そしてフロントガラスの雨粒の中に、どこか赤みがかった色が混じり始めた。
行き止まりの崖。
再び美咲はブレーキを踏みつける。今度は確かに効いている手応えがあった。タイヤが雨に濡れた路面で軋む音が夜の闇に響き渡り、そして、その音が彼女の記憶を完全に十年前へと引き戻す。
新人営業アシスタントだった二十三歳の美咲は、深夜の帰り道、工事の迂回路で見知らぬ道に迷い込んだ。
視界の悪い雨の中、赤い傘を持った人影が飛び出してきた。
鈍い音の後、バックミラーに映ったのは路上に倒れる若い女性の姿。
雨の中、赤い傘が転がっていた。
助けなきゃ。そう思いながらも、美咲は最悪の選択をした。大事なプレゼンの前日。これから始まるはずの輝かしいキャリア。すべてが崩れる恐怖が、正しい判断を狂わせた。アクセルを踏んだ。倒れている人を見捨てて逃げ出した。
『目的地まであと十メートル』
カーナビの声が美咲を現実に引き戻す。画面にはあの夜の光景が映っていた。雨の中に倒れる女性と、女性を見捨てて急発進する美咲の車。
『目的地まであと三メートル』
カーナビの画面が切り替わり、一枚の画像が表示された。
赤い傘を差す笑顔の若い女性。その隣にはにかんだ顔で佇む青年。美咲の選択によって奪われた、かつて確かに存在していた幸せが、そこにあった。
『目的地に到着しました。案内を終了します』
カーナビがどこか満足げに告げる。同時に車がガードレールに激突する衝撃と浮遊感が美咲を襲った。美咲の悲鳴も、金属の塊が地面に衝突し大破した音も、全て、夜の雨の音がかき消した。
翌朝の新聞に、二つの記事が並んで掲載された。
『深夜、崖下で車両発見 女性会社員が死亡』
『未解決のひき逃げ事件、新たな展開』
第一の記事には、IT企業の営業部長・倉持美咲(33)が運転する車が、山間部の崖から転落したと報じられていた。
第二の記事では、十年前に同じ場所で起きた広告代理店勤務の女性の死亡ひき逃げ事件が取り上げられていた。倉持の車から発見されたドライブレコーダーの映像が、長年の謎を解き明かすことになった。
警察の現場検証では、不可解な点がいくつも報告された。
まず、倉持の車のカーナビゲーションシステムは完全に正常で、事故現場への誘導記録は一切残されていなかった。
車内から発見された防犯カメラの映像。そこには、事故直前の倉持の姿があった。助手席の何もない空間に向かって、激しい恐怖に歪んだ表情で何かを必死に叫んでいる。しかし不可解なことに、その瞬間の音声だけが完全に消失していた。
最も戦慄的だったのは、事故現場から発見された佐々木美月の手帳。雨に濡れた最後のページには、こう記されていた。
~ 今日のTODO
お買い物
部屋のお掃除
お片付け
手帳の文字は滲んでいたが、横線だけは今書かれたように鮮明に残されていた。