【短編小説】彼女の帰り道
私が新しいアパートに引っ越してきたのは、9月の終わりだった。都心から少し離れた住宅街。築20年ほどの古びた2階建てアパートは、家賃が手頃だったことと、最寄り駅から徒歩7分という立地の良さで決めた。不動産屋は「静かな環境です」と言っていたが、それは「人気のない」という婉曲表現だったのかもしれない。
引っ越して3日目の夜、帰宅途中で出会ったのは一匹の黒猫だった。細い路地の街灯の下で、まるで私を待っていたかのように座っていた。艶のある黒い毛並み、すらりとした体つき。首輪はしていないが、野良猫にしては綺麗な猫だった。
「こんばんは」
思わず声をかけると、猫は「にゃあ」と鳴いて私の方に歩み寄ってきた。人懐っこい性格なのだろう。かがんで手を差し出すと、ためらうことなく頭をすりよせてきた。その瞬間、不思議な感覚が走った。この猫の琥珀色の瞳には、どこか人間的な知性が宿っているように見えた。
「お腹へったの?」
仕事で疲れていた心が、少し癒された気がした。
それから毎晩、黒猫は私の帰り道で待っていた。いつも同じ街灯の下で、私を見つけると尻尾を立てて近づいてくる。夜勤で遅くなった日も、早めに帰った日も、不思議と必ずそこにいた。
「今日も待ってたの?」
猫に話しかけながら歩く帰り道が、私の日課になっていった。しかし、その黒猫には妙な癖があった。必ず私をアパートの入り口まで送ってくると、202号室の方を見上げて、不思議な鳴き声を上げるのだ。
ある夜、管理人の古谷さんと階段で出会った時のことだ。黒猫の話をすると、彼の表情が一瞬こわばった。
「黒猫?このアパートには野良猫は寄り付かないはずですが…」
その言葉に違和感を覚えた。
毎晩会っている猫がいるのに、なぜそんなことを?管理人さんが見てないはずないのに。
ある夜、遅くまで残業をして帰ると、黒猫がいつもと違う行動を取った。いつもはアパートの入口で別れるのに、今日は階段を上っていく。
「どうしたの?」
私も後を追ったが、猫の姿は見当たらなかった。その代わり、階段の暗がりに人影が見えた。管理人の古谷さんだろうか。でも、その影はすぐに消えてしまった。
次の日、不安を感じ始めた私は、近所の人々に尋ねてみることにした。すると、このアパートについて不穏な噂を耳にすることになった。
「2年前のあの事件以来、202号室には誰も住んでないはずよ」
老婦人は、そう言って声を潜めた。
「ほら、そこに貼ってあるじゃない」
町内の掲示板を見ると、そこには古びた捜索願いのポスターが貼られていた。2年前に失踪した若い女性の写真。彼女は202号室に住んでいて、首から銀のネックレスを下げ、黒猫を抱いて笑っている写真だった。
警察の発表によると、彼女は数日間姿を見せなかったため、管理人が部屋を確認したところ、室内は生活していた形跡のままで、女性も猫も消えていたという。テーブルには飲みかけのコーヒー、壁には飼い猫との写真。まるで、誰かに追われるように突然姿を消したかのように。
その夜、いつものように黒猫と一緒にアパートへ帰る途中、猫は突然立ち止まった。そして、私を見つめるようにして階段を上がり始めた。不思議に思いながらついていくと、202号室の前で猫が立ち止まる。ドアに向かって前足でひっかくような仕草を見せ、何度も私の方を振り返った。
「あなた…もしかして…」
その時、背後で重い足音が響いた。振り返ると、そこには古谷さんが立っていた。
「こんな夜更けに、何をしているんですか?」
その声には、今まで聞いたことのない冷たさが含まれていた。手には工具箱を持っている。
「あの…202号室の様子が気になって…」
「この部屋は立入禁止です。早く自分の部屋に戻ってください」
「あ、はい。すみません…すぐ帰ります。」
野良猫連れてきちゃったから怒ってるのかな、と思いながら急いで階段を降りようとした。
その時、黒猫が激しく唸り声を上げた。
古谷さんは猫に気付き、明らかに動揺した表情を見せた。
「その猫…まさか…」
その瞬間、黒猫は古谷さんの胸元に飛びかかった。彼が驚いて後ずさりした拍子に、工具箱が床に落ちた。
中から様々な工具と共に、女性物の細い銀のネックレスが転がり出た。
私は息を飲んだ。そのネックレスを見たことがある。
アパートの掲示板に貼られていた、2年前の失踪事件の女性が身につけていたものと同じだった。
「お前…埋めたはずじゃ…」
古谷さんの顔から血の気が引いた。
彼は慌てて散らばった道具を掻き集めようとしたが、黒猫がネックレスを咥えて202号室の方へ走った。
「こ、この化け物…!」
その声には取り繕った穏やかさは消え、ただの焦りと憎悪だけが残っていた。古谷さんは工具箱から零れた金槌を拾い上げながら、私をじっと見つめた。
私は震えた。今まで見たことのない冷たい目だった。もう、取り繕う必要がないことを悟ったかのように。
「見なければよかったものを」
彼が一歩近づいてきた。その手には金槌が握られている。
私は咄嗟に後ろを向き、全力で走り出した。
背後で古谷さんの悲鳴と、黒猫の鋭い唸り声が響く。
暗い階段を転びそうになりながら、私は必死で駆け下りた。手すりに掴まる手は冷や汗で滑り、足はガクガクと震えている。
追いかけてくる足音と怒号。しかし、それは途中で途切れた。
黒猫の唸り声が激しさを増し、古谷さんの悲鳴が階段に響き渡る。
私は一階まで駆け下り、エントランスの扉を開けて外に飛び出した。
振り返ると、古谷さんの姿はなく、ただ黒猫の唸り声だけが建物の中から聞こえていた。
私は近くの交番まで走り続けた。
後日、古谷は逮捕された。
警察の家宅捜索で202号室の床下から発見された古い手帳と、事件当時の領収書の束が決め手になったとのことだ。
そこには横領の証拠と、事件の手がかりが残されていた。古谷は証拠を隠すつもりで部屋に保管していたが、それが逆に彼の罪を明らかにすることになった。
取り調べで古谷は全てを白状した。2年前、彼は202号室の住人だった女性を殺害し、遺体を山中に遺棄していた。女性が古谷の横領を見つけてしまったことが動機だったらしい。
あれから、私はあの黒猫を一度も見ていない。不思議なことに、近所の人たちに尋ねても、誰一人として、この辺りで黒猫を見たことがないと言う。まるで、私だけが見ることのできた存在だったかのように。
時々考える。あの黒猫は、きっと2年前の飼い主の無念を知る唯一の証人だったのだと。
そして、真実が明らかになった今、その使命を終えて姿を消したのかもしれない。